目標は持つべきか

社会には「目標を持つべきだ」という人が多い。

実業で成功していたり、学術の世界で権威のある人たちの多くは、

目標を持つべきだと言うだろう。

そのなかでも好感の持てる人は、論理も納得のいくものだし、

成功にいたる努力を見習わなければと思う。

 

また一方で、

「目標は持たないほうがいい」ととれる論もある。

本能や肉体など、本来のひとの姿や、

いまその瞬間の己を内面を見つめるなかにこそ正しい答えがある、

という考え方だ。

 

仕事が暇になってきて、ルーチンワークが減ると、

自分のひとつひとつの行動が気になりだす。

むやみに自分の行動を正当化していたり、

人の行動を批判していたりする。

 

それは、目標を失ったことに対する焦りから出ているのではないか、

と思う。

だが、気持ちを落ち着かせようとして、

新しい目標を探してもどうも見つからない。

そしてまた焦る。

すると、目標を持つこと自体が間違いで、

中毒症状なのではないかという気もしてくる。

 

せっかくできた暇なのだから、

目標を持つべきかどうか、じっくり自身で試そうと思う。

ブログを3ヶ月書く!

『ブログ飯』という本を読んで、

3ヶ月間、毎日ブログを書くことにした。

 

本の目的は、

ブログで飯を食えるようになりましょう、

ということだが、とりあえず収益化は考えず、

①文章力を上げる

②書くことの継続性を身につける

③言葉にすることで自分自身の理解を深める

という目的で続けようと思う。

 

『ブログ飯』で著者の染谷さんが言うように、

完璧ではなくとも、精一杯のものを書く、

ということを大事にしたい。

そのために、ブログを書くまでは晩酌しない。

晩酌の習慣も、これでなくなっていくとよいのだけれど。

 

『ブログ飯』はとても丁寧に書かれているので、理解はしやすかった。

ただ、腑に落ちたのは、最後の奥さんのコラムを読んだときだった。

努力はできる人だが、計算ずくでやったわけではなかった。

そして、一人で成し遂げたわけでもなかった。

 

奥さんも染谷さんもそれぞれ才能のある方なんだろうと思う。

でも、どちらも自分一人の手柄とは言わない。

それを本の中で隠そうとしないところが微笑ましく、

また、だからこそ、自分も挑戦してみようと思えたのかもしれない。

 

ブログ飯 個性を収入に変える生き方

会議は必要か?

「会すれど議せず

 議すれど決せず

 決すれど行わず」
 
毎度、会社の会議に出ていて思うことだ。
 
会議を改善していこう、と提案したことが、
なにも汲み上げられていない。
それが、
ふつふつと怒りになって湧いてきてしまう。
 
ただ、
自分の伝え方の工夫が足りない、
怒っていてはなにもならない、
と言い聞かせ、
その場の感情で発言しないように、
とにかくやり過ごそうとこらえる。
 
問題点は、なんだろう。
 
「会すれど議せず」
①議題を決めていない。
②議題を事前に伝えていない。
③議題に関わる資料などを用意していない。
 
「議すれど決せず」
④会議中にどこまで決めるかを定めない。
⑤意見をまとめる役目である進行役が、意見を言うので決まらない。
⑥感情的に意見を言うので決まらない。
 
「決すれど行わず」
⑦会議後に誰がなにをやるのかを決めない。
⑧実行の責任者を決めても、通常業務以外で指示を出す/指示に従う、という文化がない。
⑨社長がこれらすべてに対して、現場に任せたままにしている。
 
 
社内の会議がすべてそうなのだ。
ユーモアのある進行役がいると、
それだけで議事進行がうまいと思われてしまう。
 
もし、
赤字になる、
ボーナスがなくなる、
リストラが必要なのではないか、
という事態になったときに、
はたして「決められる」のだろうか。
 
 

広告代理店のしごと

今日、制作会社との打ち合わせのあと、後輩に、

「みんな人に頭を下げるがいやなんだよ。

 (営業は)その間に立って両方に頭を下げるのが仕事なんだよ」

と言った。

 

以前、読んだ記事で、

「ネットの広告業界では、

 広告代理店を介さずに直接取引をすることが多いが、

 面と向かってメディアも広告主も本当のところが言いづらい。

 結果、いい広告ができないので、やはり広告代理店は必要だ。」

というものがあった。

 

それをふまえて、後輩に話したわけだが、

彼がやるせない表情を見せたので、

あらためて自分に「本当にそうだろうか」と問いかけてみた。

 

すると、

自分の会社の社員同士が、

言いたいことを言えなていない状況を思い出した。

一見、無関係にも思えるが、根は同じだと感じた。

 

社員と社員の間に代理店は入らないが、

社員同士のコミュニケーションを生むために、

コンサルを雇う会社もある。

実際にそういったセミナーに参加したことがあったが、

そういったコンサルにお金を払うのはムダだと感じた。

 

であれば、

会社と会社であっても、

本来は意思の疎通ができなくてはいけないのだろう。

それは、

頭を下げる謙虚さであり、

見栄を張らないことであり、

相手に伝わる言葉を探す努力をすること、

ではないだろうか。

 

それができていないのは自分もそうだし、

会社ができていないのであれば、

もっと自分から率先して行動で示さないといけない。

翻って言えば、

そうした思考が日常となることで、

広告代理店のしごとも異質のものになっていく気がした。

娘の描いた家族の肖像画

三歳の娘が、

家族の肖像画を描いてくれた。
 
お父さん(私)
お母さん
ユイ
モモカ(一歳)
 
最初はなんだか分からなかった。
 
ただの四本の線。
 
嫁さんに言われて、
はじめて家族の絵を描いたのだと分かった。
一瞬、
「やれやれ」という苦笑がこぼれた。
 
が、次の瞬間には、
想像していなかった感動が、こみ上げてきた。
 
一人一人、色を変えている。
モモカもいる。
私もいる。
 
「ああ、そうか」
と理解できた気がした。
 
家族に対する安心、愛着。
そして、それを守っていくことが、
尊いということ。
 
あの子はそのことを、
無邪気に、
なんのてらいもなく、
自分の内から外へ表現してみせたのだ。
 
うれしかった。
同時に、
このまま育ってくれるかと、
不安になる。
このまま育つようにしてやらなくては、
と自分に言い聞かせた。
 
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『梟の城』

小説は娯楽だ。

 
久しぶりに読む小説ということもあるが、
司馬遼太郎の直木賞作品なのだから、
面白いのは当たり前かもしれない。
だが、やはり、
わくわくとする感覚は、
小説は娯楽だ、と改めて思わせる。
 
 
一つには、
忍者を主人公に据えていること。
漫画やアニメの印象が強いのか、
忍者というと幼稚なイメージがまず来てしまうが、
さにあらず。
司馬遼太郎の歴史考証に支えられた、
生々しい乱波たちの躍動感。
挿絵や地図がほしいと、
ふと思ってしまうが、
実際あれば興ざめするだけだろう。
そう思わせるほど細かな、
それでいてくどくない、
絶妙な描写となっている。
 
二つには、
商人の存在。
『大阪侍』はとくにそうだが、
戦は武士だけが動かすのではない、
ということをこの小説家は教えてくれる。
 
 
そして、
忍者、侍、商人、
それぞれの生き様を通して、
人生とは何かと問いかけている。
そのことで一旦、
忍者が躍動する軽快なリズムから、
水を差されたような変調となるのだが、
それがまた、
読み進めるうちに、
人物への共感を強めてくれる。
 
 
やはり、司馬遼太郎は面白い。
 

梟の城 (新潮文庫)

梟の城 (新潮文庫)

長所と短所と

「他人の短所を言うなかれ
 己の長所を説くなかれ」
昨年、出雲大社で引いたおみくじのことばです。

気付くと、心の中で人の批判ばかりしている。
愚痴を言うまいと思っても、
批判ばかりしていると、
やはり心の中で愚痴を吐いている。

通勤が長くなったこと、
子供が手のかかる年頃ということ。
言い訳はいくらでも思いつくが、
思考が一向に前に進まない。

この一年ばかり、
ずっとそんな毎日だった。
そしで、
人に向けて振り回していた刃は、
不意に焦りとなって自分に返ってくるのだった。


それが最近、
ふといままでにない感覚を感じることがある。

自分に短所と長所とあるように、
社会にも短所と長所とがあり、
その短所を自分も幾分かは構成しており、
その長所もまた幾分か構成している部分なのだと。

自分が社会の一つの細胞であるならば、
じたばたせずにやれることをやるしかない。
そうすると、自然と落ち着き、
思考も冴えてくる。


「Constant dripping wears away the stone.」
(雨垂れ石をも穿つ)
家庭教師の先生が、
中学の入学祝いに贈ってくれた言葉が、
最近よく思い出されます。